Evaṃ mayā dṛṣṭaṃ

経験されたこと

論題と翼 ----pakṣaについて

 

個人スケ的に、木曜日は文献学関係の勉強会・講義が特に集中する曜日です。

したがって、前日水曜日はたいへんバタバタします。

 

そんな木曜日の大トリが、「ニヤーヤ・プラヴェーシャ』の講読です。

 

で、今日の予習のなかで、少なからず気になってた疑問が氷解したので、それを記事に。

 

サンスクリットに pakṣa という単語があります。

仏教論理学のコンテクストに頻出する語で、「論題」なんかを意味します。

漢訳では宗。

 

ところが、pakṣa は「翼」を意味する語でもあります。

まんどぅーか(カエルの意)という、サンスクリット学習者界隈ではよく知られたサイトがありますが、そこの語彙検索機能では pakṣa をかけても「翼」しか出てきません。

語彙集が基にしている Monier の辞書ではーー言うまでもなくーー論理学的な意味も掲載されてますが、まんどぅーかさんは考慮しなかったみたいです。

後々付け足すつもりだったのか、あるいは、関心が仏教論理学の方面には向いて無かったからなのか、不明です。

 

なので、私としては寧ろ、pakṣa で翼の意味を真先に載せていることに、驚きました。

そして、どうして「論題」と「翼」なのか。

 

今日たまたま、これについて宇井伯寿が言及していたのを見つけました。

「因明の論理」から引用します。

 

元来、宗の原語のパクシャ(pakṣa)は対称的の二つのものを指すのであって、鳥の翼をパクシャといい、鳥のことをパクシャを有するもの(pakṣin)というほどである。故に、立者と敵者とが相対した時もパクシャで、その両主張もパクシャ、その中の一もパクシャ、更にその主張中の主辞のみでも、賓辞のみでもパクシャといわれるのである。

 

宇井伯寿、「因明の論理」、『東洋の論理 空と中観』、(書肆心水、2014)、140。

 

へー、これは面白い。納得しました。

そしてなんともサンスクリットの「らしさ」を感じさせる話。

ほかにも「半月」の意味を持ちますが、満月の半分(2ー1)というイメージなのかも。

 

で、これで終われば良かったんですが、別の謎が浮上してしまいました。

それについても、すこし。

 

既述のとおり、仏教論理学で論題は pakṣa です。しかし、もっと古い時代の、ニヤーヤ学派の伝統に従えば、論題は pratijñā という語で指示されます。

仏教論理学の大成者たるディグナーガは、五支作法というニヤーヤ以来の伝統を批判し、三支作法を採用します。

pratijñā から pakṣa への転換も、同様だったみたいです。

 

その検証についてはとても量り知れないところがありますが、次のような指摘を見つけました。

 

 

 

ニヤーヤの五支作法において、論題を指す語には pratijñā があてられている。宗と漢訳されているが、仏教論理学においては pakṣa に対してあてられている。彼が主張命題としてニヤーヤ學派で普通用いられる pratijñāを使用せず、主張命題及び圭張命題の主僻の爾義を有する paksa を代りに用いたのは、そういう鮎と何らかの關係があるのではなかろうか。

 

泰本融、「五分作法の一考察 ーーシャーンタラクシタの反論をめぐつてーー」、3.

 

あしたの講義の課題になりました。