Evaṃ mayā dṛṣṭaṃ

経験されたこと

プルシャの伝統

前回の記事のつづきです。

 

前記事で、サーンキヤは一般に六派哲学――ヴェーダという古典的な思想を継承した六種の思想――のひとつと説明されるが、時代によってはそうではなかったのかも知れない、そもそも六派哲学というカテゴリーは必ずしも絶対ではない、ということを書きました。

 

サーンキヤの哲学は、多くのインド哲学と同様、苦からの離脱を解きます。

つまり、解脱。

 

サーンキヤの説く解脱を理解するには、サーンキヤの説示する宇宙観・世界観を理解する必要があります。

そして、サーンキヤの宇宙観を知るためには、少なからずヴェーダの説く宇宙観、特に宇宙創造の物語をみておくと良いのではないかと思います。

 

ここでは村上真完氏の『インド哲学概論』「第1章 世界と自己(存在論)」をハンドブックとしてみてみます。

 

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村上先生は『リグ・ヴェーダ』にうかがえる世界創造論を ①建造造一切者 ②生殖観 ③開展 という三者に分けています。

 

①はヴィシュヤカルマンという一切者が世界を創造したという創造譚。

②は唯一物が男性性をもつものと女性性をもつものとに分離し、両者の交渉が世界を創造したという創造譚

③はプルシャ(〝原人〟と邦訳される千頭千眼の巨人)から世界が展開したという創造譚。

 

このように、リグでは一元的な存在を前提とした世界創造譚が解かれているわけです。

 

サーンキヤの宇宙観はこの三者の要素が交ったものだと言えると思います。

 

サーンキヤ・カーリカー』によると、理性、意識、感覚器官、思考器官、知覚器官等々とその活動は、プルシャという男性的な存在が、プラクリティという女性的な存在を<見つめる>ことによって、プラクリティから開展されるといいます。

 

プルシャは本来、個我的な不動の一者です。その性格は、③と①を想起させます。

また、プルシャがプラクリティを観察することでプラクリティから世界が創造されるという世界観は、②を思わせるものです。

 

概して、『サーンキヤ・カーリカー』に説かれる世界観はこのようなものでしょうか。

この考えがどのように人間的な苦しみからの離脱に接続するのかは後ほど確認するとして、ひとまず、次のことが結構重要なポイントとか思います。

 

ヴェーダにおける一元の探求は、サーンキヤにおいては、この多様な世界の展開を説明する努力へと向けられる。

 

片岡啓、「宗教の起源と展開」、『新アジア仏教史 第1巻』、佼成出版社、2010、152。

 

次回からは『サーンキヤ・カーリカー』を実際に引用しながら、もうすこしだけサーンキヤについて触れていこうと思います。