Evaṃ mayā dṛṣṭaṃ

経験されたこと

ヴェーダにおける3つの過失

 

もうすこしサーンキヤについて。

 

サーンキヤ・カーリカー』の冒頭で、ヴェーダの教義もまた経験的な他種の対処法と同様である=過失が認められる、ということが述べられました。

なぜでしょうか。

前回記事に掲載した偈文では①不浄、②消滅、③優位の別という3つのポイントが示されましたが、ここでふたたび『金七十論』をみてみます。

 

『金七十論』

 

まず①不浄に関する言及。

 

馬祠の説くに言う如し、尽く六百の獣を殺す。六百獣の三を少て具足せずんば、則ち戯等の五事をなして天に生を得ず[1]。・・・(中略)・・・是れの故に清浄ならず。

 

馬祠は aśvamedha(aśva[馬]+medha[供養祭])の漢訳語。

馬を供物とするヴェーダ型の祭式のことを指します。サーンキヤの思想によれば、馬を生贄に捧げる営みは不浄であり、天界へ赴くこと=解脱することができません。

 

つぎに②消滅に関する言及。

 

帝釈及び阿修羅の為に時節の滅せる所、免れべからざる故に、是れの法、滅尽せば施主、天より退く故に退失の義有り。

 

ヴェーダ祭祀は、死後の天界でのくらしを豊かにすることを目的の一つとしていました。

祭主——『金七十論』では施主と言われています——は死後の天界での充実したくらしを求め、祭官に儀礼を依頼します。祭官は供物をささげ、炎をあつかい、呪文を唱えて儀礼を遂行するのです。

したがって、古代インドでは、儀礼の効力は来世(天界)で待機していて、祭主は死後に効力を享受できるといいます。

しかし、天界でのくらしを充足させる祭式の果報は永続的ではありません。というより、神や天もまた、時間の法則といった宇宙の支配のもとに活動しているわけです。ですから、時間の経過に伴って果報が尽きると、人間の世界へ戻ってきてしまうのです。

『金七十論』が書いている「退失の義」とはこのことであり、翻ってみればkṣaya 消滅もこれを言っているものと思われます――なお、この議論と並行する iṣtāpūrta の研究も興味深いです――。

 

最後に③優位の別。

 

三に優劣とは、譬えば貧窮の富の見に則ち憂悩するが如し。醜好及び愚智憂悩するも復た然なり。天の中、亦た是の如し。下品は上勝を見て、次第に憂悩を生ず。是の故に優劣有り。

 

つまり、貧富の差や美醜の差による苦悩があるのと同様に、果報においても下品(げぼん)なものから勝(すぐ)れたものがあります。この差異は結果的に憂悩をもたらすため、重大な過失であると断じられます。

 

このように、『金七十論』で言及されるヴェーダの過失は、もっぱら儀礼と関係していることがわかります。同様の指摘はマータラの註釈にも認められます。

 

ya eṣa ānuśravikaḥ śrauto `gnihotrādikaḥ svargasādhanatayā tāpatrayapratīkārahetur uktaḥ, so `pi dṛṣṭavad anaikāntikaḥ pratīkāraḥ

 

ここにおいてヴェーダの伝授による祭式、火の儀礼等々の方法によって天上へと至ることから、三種の解脱と言われた。それが経験的に〔知られた〕絶対的な解脱である。

 

さて、サーンキヤによれば、サーンキヤの教えはヴェーダの教義より優れているといわれます。なぜなら、顕現するもの(vyakta)、未顕現なもの(avyakta)、知るもの(jña)の三者を識別するためだといいます。

 

 

[1] 「六百獣の」~「五事をなして」までの詳細は不明です。高木訷二氏も二偈目に対する研究をしていますが、深く言及していません。