Evaṃ mayā dṛṣṭaṃ

経験されたこと

世界観と解脱

前回、サーンキヤは顕現するもの(vyakta)、未顕現なもの(avyakta)、知るもの(jña)の三者の識別がサーンキヤの説く苦からの解脱である、という偈文を紹介しました。

 

顕現するもの(vyakta)、未顕現なもの(avyakta)、知るもの(jña)を詳細に解説するのは到底私の能力の限界を超えるので、骨子だけ紹介するにとどめようと思います。

 

まず、ガウタパーダの註釈。

 

vyaktāvyaktajñavijñānāt tatra vyaktaṃ mahadādibuddhirahaṃkāraḥ pañca tanmātrāṇi ekādaśendriyāṇi pañcamahābhūtāni / avyaktaṃ pradhānam / jñaḥ puruṣaḥ /

顕現するもの,未顕現なもの,知るもののうち,顕現するものとは,大覚であり,自我であり,5 種の基本要素と 11 種の感覚器官と,5 種の偉大な元素である.未顕現なものとは,プラダーナである.知るものとは,プルシャである.

 

 

つまり、

顕現するもの=大覚(統制機能)、自我、基本要素、感覚器官、元素。

未顕現なもの=プラダーナ(プラクリティ)。

知るもの=プルシャ。

ということです。

 

便宜上、プルシャ→プラクリティ→顕現するものの順でみてみます。

 

①知るもの(jña): プルシャ

前々記事だったでしょうか。サーンキヤによれば、意識や感覚といった諸々の事物や現象の発生の原理は、プルシャとプラクリティの相互的な係り合いに求められるということを書きました。

プルシャは本来的に独存する絶対的な一者ですが、世界創造を担う絶対的な一者の存在は、『リグ・ヴェーダ』にも既にうかがえました。

 

②未顕現のもの(avyakta): プラクリティ(プラダーナ)

ラクリティ(プラダーナ)は女性的な存在です。

既述したように、世界の構成は専らプラクリティによって為されます――プルシャは見るだけ――。

avyakta は a-vyakta です。語頭の a は否定辞。「未—顕現」です。

 

ここで、プルシャとプラクリティの活動をうかがわせる偈文を参照してみます。

 

puruṣasya darśanārthaṃ kaivalyārthaṃ tathā pradhānasya /
paṅgvandhavad ubhayor api saṃyogas tatkṛtaḥ sargaḥ // ISk_21 //

プルシャにおいては観照〔という目的のために〕,また,プラダーナにおいては〔プルシャの〕独存〔という目的のために〕.あだかも〔道行を観照することはできるものの歩行の困難な〕足の不自由な者と,〔歩行はできるものの観照することが困難な〕目の不自由な者と〔が同じ場所へ行くため, 後者が前者を背負うのと同様に〕,両者も結合をする.//21

 

サーンキヤ・カーリカー』の21偈目です。

プルシャは不動の観照者で、プラクリティは盲の動作者。

プルシャが観照したいと欲し、プラクリティは観照されたいと欲します。

2人は、目が見えるけれど動けない人と、目が見えないけれど動ける人の関係に似ています。

前者が後者に背負われれば、両者は一身同体の関係になります。

 

この比喩より、個人的にはつぎのものの方が好きです。

 

raṅgasya darśayitvā nivartate nartakī yathā nṛtyāt /
puruṣasya tathātmānaṃ prakāśya vinivartate prakṛtiḥ // ISk_59 //

あだかも劇場において踊り子が〔舞を〕観せてから舞踏を終えるのと同様に, プラクリティはプルシャに自らを示し終えてから活動を停止する.// ISk_59

 

dṛṣṭā mayetyupekṣaka eko dṛṣṭāhamityuparamatyanyā /
sati saṃyoge 'pi tayoḥ prayojanaṃ nāsti sargasya // ISk_66 //


「わたしは〔踊を〕観た」と唯一の鑑賞者は関心を失くし(観るのをやめ),〔舞踏をプルシャによって〕見られた彼女は,「わたしは観てもらった」といって〔舞踏を〕やめる.たとえ両者が結合したところで創造の動機は〔もはや〕存在しない.// ISk_66 //

 

ここでは両者が観客—踊り子で喩えられています。踊り子は客に披露することを欲し、客は踊りを観たいと欲します。

その結果、踊が踊られるわけですが、踊とは諸現象の発生—世界の創造の比喩です。

しなやかな身振りと華美な衣装の動作が――古代インドの踊の実態をよく知らないので妄想ですが――、世界を徐々に構成していく運動を喩えているわけです。うーん、面白い。

 

③顕現するもの(vyakta): 世界の開展

vyakta は統制機能、自我、諸器官、元素を指すと言いますが、つまりは、プルシャ(知るもの)がプラクリティ(未顕現なもの)を観照したときに生じる諸現象のこと。

喩えでいうなら、踊のこと。

 

prakṛter mahāṃs tato 'haṅkāras tasmād gaṇaś ca ṣoḍaśakaḥ /
tasmād api ṣoḍaśakāt pañcabhyaḥ pañca bhūtāni // ISk_22 //


ラクリティより大覚が,それから自我が,さらに16〔の原理〕から成立する一群が〔開展する〕.さらに16〔の原理〕のうちの5〔種類の基本要素〕から5〔の元素〕が生じる。// ISk_22 //

 

abhimāno 'haṅkāras tasmād dvividhaḥ pravartate sargaḥ /
aindriya ekādaśakas tanmātrapañcakaś caiva // ISk_24 //

 

自我とは自己に関連づける能力である.それから二種類の被造物が顕われる.11〔の原理〕から成立する一群,5つの基本要素とである.// ISk_24 //

 

このように、順々に要素が出現=世界が構成されていくわけです。

 

最後に、解脱について。

サーンキヤの教えるところによれば、結局、世界の開展の本質はプルシャの積極的な活動にあるわけです。プルシャが観よう、と思い立って、観られることを欲するプラクリティを観照することで世界は開展するので。

他方で、プラクリティは現象を構成する役割を担っています。

いうなれば、理性も感覚器官もその活動も、独存的なプルシャとは本来的に無関係なわけです。

したがって、苦を生じさせる契機はプラクリティにあって、プルシャにはない。このような世界の本質を正しく知ることで、解脱は完成します。覚者はプルシャと同様の状態——独我の状態——を享受できるのです。

 

prāpte śarīrabhede caritārthatvāt pradhānavinivṛttau /
aikāntikam ātyantikam ubhayaṃ kaivalyam āpnoti // ISk_68 //

身体から遊離されるに至り,目的が果たされたことでプラダーナが去るとき, 孤独と完全の両方に近い状態である独存へと至る.// ISk_68

 

 

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ヴェーダにおける3つの過失

 

もうすこしサーンキヤについて。

 

サーンキヤ・カーリカー』の冒頭で、ヴェーダの教義もまた経験的な他種の対処法と同様である=過失が認められる、ということが述べられました。

なぜでしょうか。

前回記事に掲載した偈文では①不浄、②消滅、③優位の別という3つのポイントが示されましたが、ここでふたたび『金七十論』をみてみます。

 

『金七十論』

 

まず①不浄に関する言及。

 

馬祠の説くに言う如し、尽く六百の獣を殺す。六百獣の三を少て具足せずんば、則ち戯等の五事をなして天に生を得ず[1]。・・・(中略)・・・是れの故に清浄ならず。

 

馬祠は aśvamedha(aśva[馬]+medha[供養祭])の漢訳語。

馬を供物とするヴェーダ型の祭式のことを指します。サーンキヤの思想によれば、馬を生贄に捧げる営みは不浄であり、天界へ赴くこと=解脱することができません。

 

つぎに②消滅に関する言及。

 

帝釈及び阿修羅の為に時節の滅せる所、免れべからざる故に、是れの法、滅尽せば施主、天より退く故に退失の義有り。

 

ヴェーダ祭祀は、死後の天界でのくらしを豊かにすることを目的の一つとしていました。

祭主——『金七十論』では施主と言われています——は死後の天界での充実したくらしを求め、祭官に儀礼を依頼します。祭官は供物をささげ、炎をあつかい、呪文を唱えて儀礼を遂行するのです。

したがって、古代インドでは、儀礼の効力は来世(天界)で待機していて、祭主は死後に効力を享受できるといいます。

しかし、天界でのくらしを充足させる祭式の果報は永続的ではありません。というより、神や天もまた、時間の法則といった宇宙の支配のもとに活動しているわけです。ですから、時間の経過に伴って果報が尽きると、人間の世界へ戻ってきてしまうのです。

『金七十論』が書いている「退失の義」とはこのことであり、翻ってみればkṣaya 消滅もこれを言っているものと思われます――なお、この議論と並行する iṣtāpūrta の研究も興味深いです――。

 

最後に③優位の別。

 

三に優劣とは、譬えば貧窮の富の見に則ち憂悩するが如し。醜好及び愚智憂悩するも復た然なり。天の中、亦た是の如し。下品は上勝を見て、次第に憂悩を生ず。是の故に優劣有り。

 

つまり、貧富の差や美醜の差による苦悩があるのと同様に、果報においても下品(げぼん)なものから勝(すぐ)れたものがあります。この差異は結果的に憂悩をもたらすため、重大な過失であると断じられます。

 

このように、『金七十論』で言及されるヴェーダの過失は、もっぱら儀礼と関係していることがわかります。同様の指摘はマータラの註釈にも認められます。

 

ya eṣa ānuśravikaḥ śrauto `gnihotrādikaḥ svargasādhanatayā tāpatrayapratīkārahetur uktaḥ, so `pi dṛṣṭavad anaikāntikaḥ pratīkāraḥ

 

ここにおいてヴェーダの伝授による祭式、火の儀礼等々の方法によって天上へと至ることから、三種の解脱と言われた。それが経験的に〔知られた〕絶対的な解脱である。

 

さて、サーンキヤによれば、サーンキヤの教えはヴェーダの教義より優れているといわれます。なぜなら、顕現するもの(vyakta)、未顕現なもの(avyakta)、知るもの(jña)の三者を識別するためだといいます。

 

 

[1] 「六百獣の」~「五事をなして」までの詳細は不明です。高木訷二氏も二偈目に対する研究をしていますが、深く言及していません。

三種の苦

サーンキヤ思想は Kapila カピラ によって前4Cごろに創始されたと言います。

とはいえ遺存する文献は少なく、今日ではイーシュヴァラクリシュナによる綱要書『サーンキヤ・カーリカー』(5C)が最も代表的な典籍として知られています。

同書の註釈文献は(私の知るかぎりでは)9冊存在しており、日本でも近世に盛んに研究されていたようです。

 

およそインドの哲学思想は、おしなべて人間的な苦からの脱却を目的としています。

ヴェーダでは儀礼をおこなうこと。仏教では執着しないこと。

では、サーンキヤではどうでしょうか。

 

duḥkhatrayābhighātāj jijñāsā tadabhighātake hetau /

dṛṣṭe sāpārthā cen naikāntātyantato 'bhāvāt // ISk_1 //

 

〔人は〕三種の苦しみに襲われるので,これを克服する方法を求める.

〔苦しみを克服する方法は〕経験されているので,もし,〔それを求めようとする営みが〕無意義であるというのであれば,そうではない.〔経験で知られた方法には〕 唯一にして完全なものは存在しないからである.// ISk_1

 

以上は一偈目(一番最初の文章)です。

三種の苦しみとはなんでしょう。

サーンキヤ・カーリカー』の成立と近い時期に記された――そして確認されうるかぎり最古の註釈書――、眞諦(499-569)による註釈文献『金七十論』に解説があります――『大正蔵』にも収録されていますが、いまほど調べていたら早稲田大学図書館のDLで公開されていたものがあったので、今回はこちらを――[1]

 

『金七十論』

 

三苦〔註: duḥkhatraya〕とは、一には依内、二には依外、三には依天なり。依内とは謂く、風熱痰[2]、平等ならざるが故に、能く病の苦を生ず。医方の説く如き、臍より以下、是れを風処と名づけ、心より以下、是れを熱処と名づく。・・・(中略)・・・風病を熱痰も亦た爾なり。是れを身苦と名づく。心の苦とは、可く愛に別離し、怨憎聚集し、所求を得ず。此れの三を分別して、則ち心苦を生ず。是れの如きの苦を依内の苦と名づく。依外の苦とは、所謂る世の人、禽獣、毒蛇、山崩れ、岸折れ等、所の生の苦を名けて外の苦と曰う。依天とは、謂わく、寒熱・風雨、雷電等、是れの如く種々に天の為に悩まさる所で心を失するものを、依天の苦と名づく。

 

『金七十論』

 

つまりは、病気や心の辛さといった身体内に要因をもつ苦(依内の苦)。動物からの危害や事故といった身体外に要因をもつ苦(依外の苦)。そして天災といった天に要因をもつ苦(依天の苦)。この三種なんですね。

ちなみにですが、ほかの註釈文献では「依天」に神や悪鬼の祟りといった要素も付加させているらしいです。

また、仏教には四苦という教えがありますが、サーンキヤで言われている「愛に別離し、怨憎聚集」云々は、釈尊の説いた愛別離苦、怨憎会苦を想い出させます。

 

一偈目には三つの苦しみが説かれるとともに、その対処法は経験的に知られているが、いずれも万全ではないと言われていました。

経験的な対処法とは、依内苦には医療、依外苦には処世訓、依天苦には呪文などがあるようですが、いずれも抜け目――『金七十論』では「過失」といわれています――があるとのこと。

このような過失は、ヴェーダの教義にも通じます。

 

dṛṣṭavad ānuśravikaḥ sa hy aviśuddhaḥ kṣayātiśayayuktaḥ/

tadviparītaḥ śreyān vyaktātajñavijñānāt // ISk_2 //

 

経験的に〔知られた〕ヴェーダの伝授〔もまた唯一にして完全なものではない〕.なぜなら不浄なるもの,消滅,優位の別が語られるからである.

それらより,逆に〔サーンキヤの教義の方が〕優れている.明瞭なもの(vyakta),不明瞭なもの(avyakta),知るもの(jña)を識別するためである.

 

次回はヴェーダが完全でない理由と、サーンキヤが優れているとされる理由を確認してみようと思います。

 

[1] 金七十論. 巻上,中,下 / 真諦 訳

[2] 『大正蔵』には「風熱淡」。

 

プルシャの伝統

前回の記事のつづきです。

 

前記事で、サーンキヤは一般に六派哲学――ヴェーダという古典的な思想を継承した六種の思想――のひとつと説明されるが、時代によってはそうではなかったのかも知れない、そもそも六派哲学というカテゴリーは必ずしも絶対ではない、ということを書きました。

 

サーンキヤの哲学は、多くのインド哲学と同様、苦からの離脱を解きます。

つまり、解脱。

 

サーンキヤの説く解脱を理解するには、サーンキヤの説示する宇宙観・世界観を理解する必要があります。

そして、サーンキヤの宇宙観を知るためには、少なからずヴェーダの説く宇宙観、特に宇宙創造の物語をみておくと良いのではないかと思います。

 

ここでは村上真完氏の『インド哲学概論』「第1章 世界と自己(存在論)」をハンドブックとしてみてみます。

 

www.e-hon.ne.jp

 

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村上先生は『リグ・ヴェーダ』にうかがえる世界創造論を ①建造造一切者 ②生殖観 ③開展 という三者に分けています。

 

①はヴィシュヤカルマンという一切者が世界を創造したという創造譚。

②は唯一物が男性性をもつものと女性性をもつものとに分離し、両者の交渉が世界を創造したという創造譚

③はプルシャ(〝原人〟と邦訳される千頭千眼の巨人)から世界が展開したという創造譚。

 

このように、リグでは一元的な存在を前提とした世界創造譚が解かれているわけです。

 

サーンキヤの宇宙観はこの三者の要素が交ったものだと言えると思います。

 

サーンキヤ・カーリカー』によると、理性、意識、感覚器官、思考器官、知覚器官等々とその活動は、プルシャという男性的な存在が、プラクリティという女性的な存在を<見つめる>ことによって、プラクリティから開展されるといいます。

 

プルシャは本来、個我的な不動の一者です。その性格は、③と①を想起させます。

また、プルシャがプラクリティを観察することでプラクリティから世界が創造されるという世界観は、②を思わせるものです。

 

概して、『サーンキヤ・カーリカー』に説かれる世界観はこのようなものでしょうか。

この考えがどのように人間的な苦しみからの離脱に接続するのかは後ほど確認するとして、ひとまず、次のことが結構重要なポイントとか思います。

 

ヴェーダにおける一元の探求は、サーンキヤにおいては、この多様な世界の展開を説明する努力へと向けられる。

 

片岡啓、「宗教の起源と展開」、『新アジア仏教史 第1巻』、佼成出版社、2010、152。

 

次回からは『サーンキヤ・カーリカー』を実際に引用しながら、もうすこしだけサーンキヤについて触れていこうと思います。

 

 

 

サーンキヤと六派哲学というカテゴリー

講義でサーンキヤがとりあげられたのでSāmkhya サーンキヤについて。

 

サーンキヤは一般に六派哲学のひとつとして語られています。

 

六派哲学とは、インド哲学における伝統的な権威たるヴェーダの思想を継承した、六つの哲学思想のことを言います。

サーンキヤはヨーガの姉妹哲学であり、これにミーマーンサーヴェーダンタ、そしてニヤーヤヴァイシェーシカをくわえると6つになります。

 

kotobank.jp

 

ところが、この〝六派哲学〟というカテゴリーは、かならずしも古代インド思想における通念ではなかった、というのが実情なようです――コトバンクでも意見が分かれているのが解ります――。

 

むしろ、サーンキヤは反ヴェーダ的でさえあります。

 

それというのも、サーンキヤ思想の綱要書たる『サーンキヤ・カーリカー』では、冒頭にヴェーダ的な祭式――動物の生贄――を否定していますし、絶対的な一者を想定している点がヴェーダの思想に反するからです。

 

このあたりのことは、私の知るかぎりでは丸井浩先生の『ジャヤンタ研究』が最も詳しい邦文献です――ほかに片岡啓先生の「宗教の起源と展開」、古いものだと『世界の名著Ⅰ』――おそらく服部正昭先生が書いたと思われる解説(P35)、村上真完先生の『サーンクヤ哲学研究 インド哲学における自我観』(P647)など――。

丸井浩先生の『ジャヤンタ研究』によると、六派哲学というカテゴリーは中世の仏教抒情詩に存在が確認されるらしいので、まったく根拠がないわけでもないみたいです。

ちなみに、バッタ・ジャヤンタはちゃんとサーンキヤヴェーダの非正当思想に位置づけています。

 

www.hanmoto.com

 

サーンキヤ思想と一口に言っても、時代によって思想の中身は異なっていた筈です。

仏教だって、色々ですから。一口に「仏教の考えでは・・・」と言えることは、案外限られてくるでしょう。

 

なので、『サーンキヤ・カーリカー』が制作された5Cのサーンキヤが反ヴェーダ的であったとしても、もっと古い時代のサーンキヤではヴェーダの思想を肯定していたかもしれません。

特に初期のサーンキヤは実態が不明です。

 

サーンキヤ・カーリカー』は私が人生で最初に読んだ論書なので、多少なりとも思い入れがあります。

直近の授業の感想も含めて、しばらくはサーンキヤ関連の投稿をしてみようかな、と思っています。

 

論題と翼 ----pakṣaについて

 

個人スケ的に、木曜日は文献学関係の勉強会・講義が特に集中する曜日です。

したがって、前日水曜日はたいへんバタバタします。

 

そんな木曜日の大トリが、「ニヤーヤ・プラヴェーシャ』の講読です。

 

で、今日の予習のなかで、少なからず気になってた疑問が氷解したので、それを記事に。

 

サンスクリットに pakṣa という単語があります。

仏教論理学のコンテクストに頻出する語で、「論題」なんかを意味します。

漢訳では宗。

 

ところが、pakṣa は「翼」を意味する語でもあります。

まんどぅーか(カエルの意)という、サンスクリット学習者界隈ではよく知られたサイトがありますが、そこの語彙検索機能では pakṣa をかけても「翼」しか出てきません。

語彙集が基にしている Monier の辞書ではーー言うまでもなくーー論理学的な意味も掲載されてますが、まんどぅーかさんは考慮しなかったみたいです。

後々付け足すつもりだったのか、あるいは、関心が仏教論理学の方面には向いて無かったからなのか、不明です。

 

なので、私としては寧ろ、pakṣa で翼の意味を真先に載せていることに、驚きました。

そして、どうして「論題」と「翼」なのか。

 

今日たまたま、これについて宇井伯寿が言及していたのを見つけました。

「因明の論理」から引用します。

 

元来、宗の原語のパクシャ(pakṣa)は対称的の二つのものを指すのであって、鳥の翼をパクシャといい、鳥のことをパクシャを有するもの(pakṣin)というほどである。故に、立者と敵者とが相対した時もパクシャで、その両主張もパクシャ、その中の一もパクシャ、更にその主張中の主辞のみでも、賓辞のみでもパクシャといわれるのである。

 

宇井伯寿、「因明の論理」、『東洋の論理 空と中観』、(書肆心水、2014)、140。

 

へー、これは面白い。納得しました。

そしてなんともサンスクリットの「らしさ」を感じさせる話。

ほかにも「半月」の意味を持ちますが、満月の半分(2ー1)というイメージなのかも。

 

で、これで終われば良かったんですが、別の謎が浮上してしまいました。

それについても、すこし。

 

既述のとおり、仏教論理学で論題は pakṣa です。しかし、もっと古い時代の、ニヤーヤ学派の伝統に従えば、論題は pratijñā という語で指示されます。

仏教論理学の大成者たるディグナーガは、五支作法というニヤーヤ以来の伝統を批判し、三支作法を採用します。

pratijñā から pakṣa への転換も、同様だったみたいです。

 

その検証についてはとても量り知れないところがありますが、次のような指摘を見つけました。

 

 

 

ニヤーヤの五支作法において、論題を指す語には pratijñā があてられている。宗と漢訳されているが、仏教論理学においては pakṣa に対してあてられている。彼が主張命題としてニヤーヤ學派で普通用いられる pratijñāを使用せず、主張命題及び圭張命題の主僻の爾義を有する paksa を代りに用いたのは、そういう鮎と何らかの關係があるのではなかろうか。

 

泰本融、「五分作法の一考察 ーーシャーンタラクシタの反論をめぐつてーー」、3.

 

あしたの講義の課題になりました。