Evaṃ mayā dṛṣṭaṃ

経験されたこと

三種の苦

サーンキヤ思想は Kapila カピラ によって前4Cごろに創始されたと言います。

とはいえ遺存する文献は少なく、今日ではイーシュヴァラクリシュナによる綱要書『サーンキヤ・カーリカー』(5C)が最も代表的な典籍として知られています。

同書の註釈文献は(私の知るかぎりでは)9冊存在しており、日本でも近世に盛んに研究されていたようです。

 

およそインドの哲学思想は、おしなべて人間的な苦からの脱却を目的としています。

ヴェーダでは儀礼をおこなうこと。仏教では執着しないこと。

では、サーンキヤではどうでしょうか。

 

duḥkhatrayābhighātāj jijñāsā tadabhighātake hetau /

dṛṣṭe sāpārthā cen naikāntātyantato 'bhāvāt // ISk_1 //

 

〔人は〕三種の苦しみに襲われるので,これを克服する方法を求める.

〔苦しみを克服する方法は〕経験されているので,もし,〔それを求めようとする営みが〕無意義であるというのであれば,そうではない.〔経験で知られた方法には〕 唯一にして完全なものは存在しないからである.// ISk_1

 

以上は一偈目(一番最初の文章)です。

三種の苦しみとはなんでしょう。

サーンキヤ・カーリカー』の成立と近い時期に記された――そして確認されうるかぎり最古の註釈書――、眞諦(499-569)による註釈文献『金七十論』に解説があります――『大正蔵』にも収録されていますが、いまほど調べていたら早稲田大学図書館のDLで公開されていたものがあったので、今回はこちらを――[1]

 

『金七十論』

 

三苦〔註: duḥkhatraya〕とは、一には依内、二には依外、三には依天なり。依内とは謂く、風熱痰[2]、平等ならざるが故に、能く病の苦を生ず。医方の説く如き、臍より以下、是れを風処と名づけ、心より以下、是れを熱処と名づく。・・・(中略)・・・風病を熱痰も亦た爾なり。是れを身苦と名づく。心の苦とは、可く愛に別離し、怨憎聚集し、所求を得ず。此れの三を分別して、則ち心苦を生ず。是れの如きの苦を依内の苦と名づく。依外の苦とは、所謂る世の人、禽獣、毒蛇、山崩れ、岸折れ等、所の生の苦を名けて外の苦と曰う。依天とは、謂わく、寒熱・風雨、雷電等、是れの如く種々に天の為に悩まさる所で心を失するものを、依天の苦と名づく。

 

『金七十論』

 

つまりは、病気や心の辛さといった身体内に要因をもつ苦(依内の苦)。動物からの危害や事故といった身体外に要因をもつ苦(依外の苦)。そして天災といった天に要因をもつ苦(依天の苦)。この三種なんですね。

ちなみにですが、ほかの註釈文献では「依天」に神や悪鬼の祟りといった要素も付加させているらしいです。

また、仏教には四苦という教えがありますが、サーンキヤで言われている「愛に別離し、怨憎聚集」云々は、釈尊の説いた愛別離苦、怨憎会苦を想い出させます。

 

一偈目には三つの苦しみが説かれるとともに、その対処法は経験的に知られているが、いずれも万全ではないと言われていました。

経験的な対処法とは、依内苦には医療、依外苦には処世訓、依天苦には呪文などがあるようですが、いずれも抜け目――『金七十論』では「過失」といわれています――があるとのこと。

このような過失は、ヴェーダの教義にも通じます。

 

dṛṣṭavad ānuśravikaḥ sa hy aviśuddhaḥ kṣayātiśayayuktaḥ/

tadviparītaḥ śreyān vyaktātajñavijñānāt // ISk_2 //

 

経験的に〔知られた〕ヴェーダの伝授〔もまた唯一にして完全なものではない〕.なぜなら不浄なるもの,消滅,優位の別が語られるからである.

それらより,逆に〔サーンキヤの教義の方が〕優れている.明瞭なもの(vyakta),不明瞭なもの(avyakta),知るもの(jña)を識別するためである.

 

次回はヴェーダが完全でない理由と、サーンキヤが優れているとされる理由を確認してみようと思います。

 

[1] 金七十論. 巻上,中,下 / 真諦 訳

[2] 『大正蔵』には「風熱淡」。